序章 光速の壁を超えて
人類が宇宙に目を向けて以来、最も重くのしかかってきた問いがある――「光の速さを超えることはできるのか」。
アルベルト・アインシュタインがその相対性理論によって築き上げた壁は、あまりに堅固であった。エネルギーは質量とともに無限に増大し、光速は絶対の限界として立ちはだかる。20世紀から21世紀初頭にかけて、数多の科学者たちはその壁をどう乗り越えるかを夢想し、あるいは諦念を抱いてきた。
だが、21世紀半ば。量子情報工学、重力波天文学、そして負のエネルギー理論の進展が、かつて「机上の空論」とされてきた恒星間航行を現実へと近づけた。光速を超えるわけではない。だが、空間そのものを操り、ショートカットを繋ぐことによって、事実上の「超光速」を実現する道が拓けたのである。
以下に語る「五景」は、人類がその新たな航路に挑んだ最初の物語である。
五つの船団、五つの方法、五つの航海――いずれも光の速さを超えずして、光よりも遠くへ到達する試みであった。
第一景 アルクトゥルスへの回廊 ― ワープ実験船《ホライズン》
最初の挑戦は、理論物理学者アルクビエレの名を冠した「ワープ航法」の実証であった。
富士通と理化学研究所が共同で設計した超伝導量子シミュレーター群は、膨大な空間幾何計算を同時並列で解き、人類史上初めて「閉じた安定的ワープ泡」の形成を可能にした。ワープ泡は光速を超えず、むしろ局所空間における「膨張と収縮」を制御することによって船を移動させる。船そのものは動かず、空間が船を運ぶのだ。
実験船《ホライズン》は、地球軌道上でその航法を起動した。
航行士たちが最初に見たのは、星々が引き延ばされるのでも、トンネルを通るのでもなく、「周囲の宇宙が泡の表面に沿って流れ落ちていく」奇妙な景色だったという。まるで船が空間の川に浮かび、見えぬ流れに運ばれていくかのようであった。
《ホライズン》はわずか三時間で36光年先、アルクトゥルス近傍の空域に出現した。だがそこには、予想もしなかった問題が待っていた。
帰還のためのワープ泡を再起動した瞬間、泡の表面に「量子真空の歪み」が発生し、局所的なエネルギー異常が発火。船体をかすめる青白い稲妻が、乗員の神経系に一時的な錯覚を与えた。多くの航行士が同じ夢を見たと記録している――「地球の夜明けの光景」を。
科学者たちは後にこの現象を「量子共鳴幻視」と呼び、ワープ航法が人間の脳神経の根源に干渉することを警告した。
それでも、《ホライズン》の成功は、人類が初めて「光より遠くへ」跳んだ瞬間だった。
第二景 無窮の跳躍 ― ジャンプ航法《ペガサス》
ワープが「空間を伸縮させる」手段なら、ジャンプ航法は「空間を畳む」手段である。
ブラックホールとホワイトホールを対にした人工時空構造――いわば極小のワームホールを瞬時に展開し、船ごと通過させる。理論上はほぼ瞬間移動であり、恒星間通信や輸送の切り札として構想された。
実験船《ペガサス》は木星衛星ガニメデの軌道上から出発した。
航路の目標はベガ系、25光年先。ワームホールが展開された瞬間、船の外界は完全に暗転し、数秒後には新たな恒星の光が窓を満たしていた。
船内記録では、その間「時間が存在しなかった」と記されている。計器のログには空白が生まれ、乗員たちは「記憶の欠落」を報告した。
この空白は後に深刻な問題として議論を呼ぶ。
もしジャンプの間に「自分自身の情報が完全に消去され、再構築されている」のだとすれば、それは本当に同じ乗員と言えるのか? 哲学者と工学者たちは長く論争した。ジャンプは肉体を運ぶのか、情報を再現するのか。
人類は新しい問い――「自己同一性の限界」に直面することになった。
第三景 光帆の果て ― 《セレスティア》計画
三つ目の航法は、古典的とも言える光帆船の極限的発展である。
太陽からの光圧やレーザー推進によって加速する光帆は、理論的には光速の数十パーセントに達することが可能だ。しかしそれは数十年、あるいは数百年の歳月を要する「世代航法」だった。
《セレスティア》は全長数百キロメートルに及ぶ超巨大帆を広げ、人類史上最大の軌道建造物として建造された。推進源は地球と月からの位相同期レーザー群であり、連続照射によって船を加速し続けた。
乗員は冷凍睡眠に入り、船は半世紀かけてシリウスへと向かう。
旅の途上で観測されたのは、人類がかつて想像もしなかった「星間塵の壁」だった。光速の20%で衝突する微小粒子は、砲弾にも匹敵する破壊力を持つ。《セレスティア》は船体前面に磁場偏向シールドを展開し、粒子を弾き飛ばしながら進む。船の進路は光の矢のように伸び、その軌跡は後に「銀河の弓」と呼ばれた。
半世紀後、冷凍睡眠から覚醒した子孫たちは、祖先の夢を引き継ぎ、シリウスBの白色矮星を目にした。そこには何の文明もなく、ただ恒星の孤独が広がるのみだった。それでも彼らの記録は「到達すること」に意味を与えた。
光帆の果ての旅は、技術よりも精神の試練であったのだ。
第四景 泡の中の都市 ― 《ノア》計画
四つ目の試みは、船そのものを閉じた生態系とし、数世代にわたって航行する「コロニー船」であった。
ワープやジャンプの不安定性に比べ、《ノア》は堅実であった。恒星間に泡のような生態圏を持ち込み、内部に都市を築き、そこで人類が暮らし続ける。目的地に着くことさえ副次的で、航行そのものが生活の延長だった。
《ノア》は光速の10%でリゲルを目指した。船内では子供が生まれ、学校があり、劇場があり、議会さえ開かれた。船という閉ざされた空間の中で、人類は「宇宙国家」を先駆的に体験したのである。
数世代のうちに、《ノア》の住人は「宇宙人」と呼ぶべき独自の文化を形成していった。地球からの通信は光年の距離で遅延し、やがて断絶したが、彼らはそれを恐れなかった。自らが新しい歴史の始まりであると信じていたからだ。
リゲル到達の報はまだ地球に届いていない。
だが《ノア》の存在そのものが、「人類は宇宙に根を下ろせるのか」という問いへの実験であり続けている。
第五景 虚空の囁き ― 《カリプソ》探査
最後の挑戦は、恒星間ではなく「銀河間」に向けられた。
宇宙望遠鏡の観測により、数百万光年先の宇宙背景放射に微弱な異常が検出され、それが「人工的シグナルではないか」との仮説を呼んだのである。もしそれが真実なら、我々は銀河系外文明の痕跡を目にしていることになる。
《カリプソ》は無人の探査機であった。ワームホール技術を利用し、小さな情報カプセルとして射出され、断続的に転送されながら銀河間虚空を進んだ。船は通信の断片を残しつつ遠ざかり、やがて完全に消息を絶った。
最後に届いたのは、不思議な「音」に似た信号である。解析不能な周波数の組み合わせが、まるで歌うように響いていた。
科学者は「宇宙雑音」と言った。
だが多くの人々はそれを「虚空の囁き」と呼び、未知の知性の呼び声と信じた。
終章 光より遠くへ
五つの航海は、いずれも完全な勝利ではなかった。
ワープは人の心に幻視をもたらし、ジャンプは自己の連続性を揺るがせ、光帆は孤独を強いた。コロニー船は新たな人類を生み、無人探査は沈黙を残した。
だが、いずれも人類を「光より遠くへ」運んだという点で同じだった。
人類はまだ銀河の端にすら到達していない。
それでも、恒星を越え、世代を越え、思考の限界を越えてなお歩み続ける。
宇宙は果てしなく広く、挑戦は尽きることがない。だが、それこそが「星間航路譚」の本質なのだ。
コメント