【SF短編】ボタンひと押しで、もうひとりの私へ

ボタンひと押しで、もうひとりの私へ SF小説
ボタンひと押しで、もうひとりの私へ

序章:世界の隙間

杏奈は夜更けの研究室で、古びた量子論の専門書を閉じた。ページの隅には「パラレルワールド」という文字が何度も現れる。科学的理論に基づいた説明でありながら、どこか夢物語のようでもあった。

「並行世界が本当にあるなら、私は今とは違う道を歩んでいたのかもしれない」

ふと浮かんだのは、進学の岐路に立っていた18歳の頃の自分だ。理学部か、文学部か。結果として彼女は物理学を選んだが、もし違う決断をしていれば──そんな想像は、彼女の胸を不思議な熱で満たすのだった。

ある晩、大学の裏路地にある古い電話ボックスが杏奈の目に留まった。公衆電話などとうに時代遅れのはずなのに、そこだけ異様にきれいに保たれている。しかも、誰かに呼ばれるような奇妙な引力を感じた。

「……ここ、入ってみようかな」

受話器を手にすると、表示される番号盤に見慣れない配列が追加されていた。押すべき順番が、直感でわかった。指先が動く──世界が、かすかに揺れた。


第一章:異なる風景

受話器を置いた瞬間、杏奈は別の場所に立っていた。周囲には確かに大学のキャンパスらしき建物が見える。だが、どこかが違う。校舎のデザイン、掲げられている旗、そして歩く学生たちの服装。どれも彼女が知る世界とは微妙に異なっている。

「ここは……私の知っている大学じゃない」

掲示板に目をやると、そこには杏奈の名前があった。だが肩書は「文学部3年」。現実の杏奈は物理学専攻だ。彼女は喉の奥で小さな悲鳴をあげそうになった。

「じゃあ、この世界の私は──」

その時、背後から声がした。

「あなた、見たことがある気がする」

振り返ると、そこにいたのは杏奈自身だった。けれども髪型も服装も違い、そして目の奥に漂う雰囲気が、現実の彼女とは別の人生を歩んできたことを物語っていた。


第二章:もう一人の私

「……あなた、誰?」

そう問う杏奈に、もう一人の杏奈は微笑む。

「私は、あなたよ。ただ、少し違う選択をした世界の私」

二人はカフェに入り、互いの世界について語り合った。文学部の杏奈は詩人として名を馳せていたが、経済的には不安定で、しばしば将来への不安に苛まれていた。一方、物理学の杏奈は研究に没頭するあまり、人間関係が希薄になりつつあった。

「結局、どっちの人生も完璧じゃないんだね」

杏奈は苦笑した。もう一人の自分も同じ表情を浮かべる。

「選択の結果がどうであれ、私たちは“後悔”と共に生きていく。パラレルワールドが存在するのは、その証かもしれないわ」

しばらくして、文学部の杏奈がふと真顔になる。

「でも、気をつけて。ここは剪定される世界……選ばれなかった可能性の一つ。長く留まれば、あなたの存在も不安定になる」

杏奈の胸に冷たいものが走った。


第三章:消えゆく世界

夜、街の灯りがひとつ、またひとつと消えていった。まるで世界そのものが幕を下ろしていくかのように。

「時間がない」

文学部の杏奈が焦った声を上げた。ビルの壁が透明になり、街路樹が砂のように崩れていく。

「帰って。あなたの世界は、まだ続いている」

「でも、あなたは──」

「私はここに残る。これが私の選んだ世界だから」

杏奈は泣きそうになった。だが、相手の瞳に宿る静かな覚悟が、彼女の足を前に進めた。電話ボックスに戻ると、番号盤が再び光を放っていた。

指を置く。最後に振り返ると、もう一人の杏奈は微笑んで手を振っていた。

世界が音もなく崩れ去る中、その笑顔だけが強烈に焼き付いた。


終章:現実への帰還

気づけば、杏奈は元の研究室にいた。机の上の時計はほとんど進んでいない。夢だったのかと疑ったが、ポケットの中には異世界で受け取ったカフェのレシートが残っていた。

杏奈は深呼吸した。選ばなかった可能性は確かに存在し、それはいつか剪定されて消えるかもしれない。だが、今の彼女が生きているのは、この現実だ。

「私は、この世界を生きていこう」

窓の外、朝焼けが街を照らし始めていた。その光は、無数のパラレルワールドの中から選び取られた一つの答えを祝福するかのように、静かに彼女を包み込んでいた。

参考・着想元

パラレルワールドとは、「我々の宇宙」と同じ次元を持ちながら存在する別の時空や現実を指す概念です。SFやオカルトでも語られますが、その正確な理解には疑念がつきまといます。この認識を軸に、世界観や設定を深堀りして短編小説を執筆しました。([SF空想のネタ帳][パラレルワールドとは])

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